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JP-MIRAI外国人相談・救済パイロット事業(JP-MIRAIアシスト)(JICA実施分)

外国人とともにつくる未来――外国人支援のささえ手インタビュー

#9 外国人支援専門弁護士(暁法律事務所所長) 指宿 昭一さん

訴え続けていれば、理解したり、行動したりしてくれる人はきっといる

 多文化共生への取り組みが進む一方で、外国人労働者や在留資格のない外国人への差別や抑圧は今もなくなってはいません。そうした弱い立場におかれた外国人のために「弁護士バッジをつけた活動家」として闘い続けているのが、弁護士の指宿昭一さんです。2021年には米国国務省から「人身取引と闘うヒーロー」にも選ばれた指宿さんに、外国人支援に関わるようになった経緯や、その活動の軸となっている強い思いについてインタビューしました。
 *この記事は、2023年4月23日にライブ配信されたJP-MIRAIアシスト研修会「外国人とともにつくる未来 外国人支援のささえ手インタビュー 私の転換点~キャリアと自分軸~」を基に構成したものです。


プロフィール

指宿 昭一さん(いぶすきしょういち)(弁護士/暁法律事務所所長)

1961年神奈川県生まれ。1985年に筑波大学比較文化学類を卒業し、2007年に弁護士登録。主に労働者側に立った労働問題、外国人の入管問題、外国人技能実習生の人権問題などに取り組んでいる。近著に『使い捨て外国人―人権なき移民国家、日本』(朝陽会、2020年)など。2021年、米国務省から「人身売買と闘うヒーロー」に選ばれた。日本労働弁護団常任幹事、外国人技能実習生問題弁護士連絡会共同代表、外国人労働者弁護団代表。日本労働評議会、全国一般東京ゼネラルユニオン顧問。

神奈川の「リトル奄美」みたいな家で育った

――指宿さんのルーツから教えていただいてもいいですか。

 私は神奈川県の藤沢市出身ですが、父は奄美諸島の奄美大島、祖父母は徳之島の出身です。終戦時、父は鹿児島にいて、親兄弟に会うためにアメリカ占領下にあった奄美へ密航していったこともあるそうです。そういうこともあってか、父の奄美に対する愛着やこだわりは強かったです。東京に住む奄美出身の人たちの中には、甥や姪が奄美から上京してきたら、面倒をみるのが当然みたいな文化があって、私は3人兄弟の長男でしたが、奄美から来たいとこが5人いた時期もあり、神奈川にあるけど「リトル奄美」みたいな家でした。ただ、私自身は特別奄美が好きということもなかったですし、その頃は何も気づいていませんでした。大学を卒業した後の20代半ばごろから、「うち」は変わっている、そこにエスニックマイノリティ的な面があったのだと気づきました。

――中高生時代の指宿少年はどんな感じだったのですか。

 自称「文学青年」で、小説家になりたいと思っていました。SF作家の筒井康隆や、純文学では北村透谷と石川啄木が好きでした。

――大学に入ってからは、学生運動に熱中されたそうですね。

 父が東京教育大学(筑波大学の前身)出身だったこと、また、家から出て下宿したかったこともあり、筑波大学の文学部的なところに入学しました。私は1980年入学ですが、当時の筑波大学は管理が厳しく、その前年に自由な学園祭を初めて実現した先輩が処分されていました。大学でビラまきや集会も自由にできないし、政治活動は禁止で、大学に批判的な学者を呼んでの講演会もまかりならんというようなことを言われていました。もともと社会問題にそんなに関心はなかったのですが、禁止されればされるほど、逆に興味を持つようになって学生運動に参加するようになりました。


訴え続けていれば必ず理解して行動したり、声を上げたりしてくれる人はいる

――大学側から目を付けられたのでは?

 大学2年の時に学園祭の責任者的な立場にいたんですが、自由な学園祭を開いてけしからん、責任者のお前は厳重注意だと言われて処分を受けたうえに、3年生の時には新入生歓迎行事などの公式行事に出てはならんということになりました。でもそれに納得しない周りの学生から「指宿さん出てください」と言われて会場に行ったら、僕を壇上から下ろすか下ろさないかを巡って、教員と学生がわーっと壇上に駆け上がって騒ぎになりました。映画にしていたら、面白かったと思います。
 その時思ったのは、普段そんなに問題意識を持っていないように見えたり、発言してなかったりする人が実はよく考えてくれていて、壇上に駆け上がって僕を守ってくれているということでした。だから今、社会に対していろんな問題を訴えている時に、いくら訴えても伝わらないとか、反応がないとか、そういう話をよく聞くんですけど、僕はそんなことはないと思っていて、やっぱり訴え続けていれば必ずそれを理解して行動したり、声を上げてくれたりする人はいるっていう確信みたいなものは学生時代に学ぶことができたと思います。

――学生運動の方法のようなものは先輩から受け継がれるのですか。

 そうですね。先輩たちから引き継いで、こういう風に声をあげればいいんだとか、こうやってビラを作ってまけばいいんだとかを教わる感じです。ただ、先輩たちが、学生運動に力を入れすぎて疲れ切っている時期があって、僕はまだそんな疲れていなかったので、元気にやっていたら、「お前は見所があるな、頑張れ」みたいな感じになって。それで生徒会に毛が生えたような組織の議長になって、さっき言ったように処分されたり、矢面に立ったりして、ある意味面白い体験をさせてもらったみたいなことはありました。今振り返ってみても、苦しい中で地下活動をしていたというようなイメージは全然無いですね。


「弁護士バッジをつけた活動家になればいいじゃん」で司法試験に挑戦

――大学卒業後はどんな生活を?

 最初は、生協職員として野菜や卵をトラックで運んだりしていて、その後は筑波大学の後輩が生協を作るというので、そこのスタッフ兼専務理事を数年間やっていました。夜や週末は、労働組合を作ろうとする人を支援するために一緒にビラを書いたり、労働者に組合に入ろうと呼びかけたり、組合の会議に参加して運営を手伝ったりしていました。

――そこからなぜ弁護士を目指すことに?

 労働組合でお世話になっていた弁護士さんが仕事をしすぎて倒れて、病床から「君たちの中で誰か弁護士を育てなさい」というメッセージを託されたんです。組合の会議で誰がやるかという話になり「指宿君、理屈っぽいからやってよ」と。「弁護士なんて考えたこともないし、偉くなる気もない」と断ろうとしましたが、「弁護士バッジをつけた活動家になればいいじゃん」と言われてストーンと腑に落ちた感じでしたね。

――司法試験の勉強は大変でしたか。

 法律学って硬くてつまらないイメージがありましたが、司法試験の勉強を始めてみたらめちゃくちゃ面白くて。ある程度社会人経験をしたし、労働運動なんかもしていたこともあって、社会の仕組みみたいなものが、法律を通じて見えてくるし、弁護士になれれば裁判もできるし、法律を知っていれば、世の中の仕組みを変えていくようなこともやりやすくなるなと思いました。でもずっと勉強だけしていたわけではなくて、司法試験の予備校で働いたり、労働組合の活動をしたりしながらでした。結局合格できたのは17回目の受験でした。


不合格が続く自分を「チャレンジできる位置にいる自分は幸せ」と鼓舞

――モチベーションを維持するのは大変ではなかったですか。

 毎年落ちた日の夜は落ち込んで、でもすぐに、今年はここが悪かった、来年はこうすれば受かるぞ、楽しいぞみたいな感じになって、人が思うほど辛くはなかったですね。あきらめちゃったら終わりだし、ここで心が折れたらもう絶対受からないし。だから試験に落ちたのは残念で辛いけど、力がないわけじゃなくて可能性は十分にあるし、チャレンジできる位置にいる自分はむしろ幸せだなと。それで頑張ろうってお腹に力を入れると力がわき上がってきました。

――司法試験の勉強は労働組合の活動にも役立ったのでは?

 労働組合では労働相談も受けていたんですが、法律を勉強していたことで、法的なアドバイスもできるようになってきました。だから労働法はその頃から結構活用しているというか、実践的に使っています。あとは、スタッフとして勤務していた予備校でもなぜかいろんな相談を受けやすくて、不倫して損害賠償請求された友達がいるから相談に乗ってほしいとか、アパートの賃貸契約でトラブルになったとか。勉強にもなるしそういうのにもボランティアで相談に乗っていました。それらを通して、法律の勉強が紙の上の知識じゃなくて、実社会でどう機能していくのかというイメージを学べたのはよかったなと思います。


中国在留孤児の家族の支援をすることで、自分たちのことも見えてきた

――外国人支援というところでは、外国の方との接点はいつごろから?

 大学生の頃から中国残留孤児とその家族の支援をしていました。基本は中国語だけど、日本語も少ししゃべれるような家族で、単純に日本人と違う人がいる、文化や歴史の違う人がいるというところが面白かったし、その人たちと付き合うことで、逆に自分達のことが見えてきて、世界にはいろんな歴史を持った民族がいるんだなと。同じ中国でもどこから来ている人かで随分違って、そういえば自分も日本の中のマイノリティ出身だなと気づいたりして、ますます面白くなった感じですね。

――具体的にどんな支援を?

 生活相談に乗ったり、子どもの勉強をみたり、日本語を教えてあげたりしましたが、僕は継続的に教えていたわけでなく、生活全体をサポートしていた感じです。あとは残留孤児の権利を確立するために集会をやったり、市民に訴えたり、そんな感じですね。

――中国の残留孤児の権利を守ろうと発信しても、興味関心を示す人が少なそうな気がしますが、実際はどんな感じでしたか。

 社会的にはまだあまり注目されていなかったですね。ただ、ちょっと工夫して中国物産展を企画したり、中華料理を作ってもらい、それをみんなで食べるイベントを開いたりすることで、大学生だけじゃなくて市民も巻き込んだ楽しい活動になりました。


柔道少年が好きだったのはポジティブになれる「エースをねらえ」

――外国人支援に取り組んでこられたのは、留学などをされた経験があるからですか?

 多民族多文化というのは大好きなんですが、どこか一つの言語を勉強するというのがダメで、留学は無理ですね。まあ言葉できなくても誰かそこに居る人に通訳してもらえばいいよって、ちょっと安易に考えちゃってるところはありますね。

――司法試験に挑戦し続けた点も含め、ここまでのお話を伺うと、ポジティブな考え方をされているように思うのですが、それはどこから来ているんでしょうか。誰かの言葉に影響されたのですか。

 家族とか友達とかに言われた言葉は今明確に出てこないですが、あえていうと漫画の影響はあるかもしれません。子どもの頃は「あしたのジョー」を読んでいましたし、高校の時は柔道部だったんですが、少女漫画の「エースをねらえ」にはまって暗記するぐらい読んで、試合前にも読んでモチベーションを上げていました。負けたり、何かへこたれるようなことがあってもコートの中では泣くなっていうシーンが心に響きました。


基本給3万円、残業の時給300円で働かされていた中国人技能実習生たち

――労働関係専門の弁護士として活動をスタートされた頃のお話を聞かせてください。

 大学時代から中国残留孤児の支援を続けていて、その関係で司法試験の勉強をしながら、オーバーステイで在留資格がないイラン人の家族の支援なども始めていたので、外国人関係も最初からやっていました。僕の場合弁護士になる前からの人脈もあったので、最初からいろんなルートで相談が来て、仕事がなくて困ることはなかったです。

――最初に外国人労働者の問題に関わったのは?

 最初に関わったのが外国人技能実習生の事件でした。古巣の労働組合から話が来た事件で、中国から来ていた技能実習生が、基本給3万円ぐらい、残業は時給300円で働かされていました。僕は中小企業で労働運動をやっていたので、日本の労働現場の酷さは十分に知っているつもりでしたが、それよりさらに酷くて、これは奴隷労働じゃないかと衝撃を受けました。

――実習生たちはどんな様子でしたか。

 当時はまだ技能実習制度については素人でしたが、岐阜まで会いに行って、一生懸命話を聞きました。10代と20代の4人の若い中国人女性たちで、話を聞けば本当に酷い労働条件でしたが、それよりショックだったのは、彼女たちが笑わないことでした。彼女たちは私たちに丁寧に接してくれたし、全く笑わないとかではないけど、暗いというか硬いというか。本当に心からリラックスして笑う感じがありませんでした。


外国人技能実習生の問題からはもう逃げられないと思った体験

――その事件はどんな結果になったのですか。

 お金を受け取って、中国のお正月の前に帰国したいという彼女たちの願いは実現して、その時に「先生、私たちは日本って本当に怖い国で、日本人って悪い人ばっかりと思っていましたが、組合の人たちとか弁護士さんが私たちをこんなに助けてくれて、日本人にもいい人がいるんだなってわかって、それがうれしかったです」と初めてニコッと心から笑ってくれました。ただ、その笑顔と同じくらい、前の暗かった顔が忘れられません。それだけ精神的に追い込まれていて、私たちにも心を開けずにいたということですから。
 彼女たちが思う形で終わった事件でしたが、決して良かった良かった、で終わる話ではないと思いました。なぜなら、弁護士にも労働組合にも出会えずに「日本人なんかみんな大嫌い」って思いながら帰る人の方が多分多数派なんですよ。そんなんでいいのかって、そんな辛い思いを彼女たち、彼らたちにずっとさせていいのかって思って、この問題からはもう逃げられないっていうか、避けられないし、ちゃんとやらなきゃって思いました。

――指宿さんの前にそうした分野で活動されていた方は?

 市民運動とか労働組合にはいたし、弁護士もいなくはないけど、僕みたいに大げさな形で取り組んだ人はいなかったかもしれません。大げさというのは、僕は新人の時から、そういう事件の時に必ず記者会見をしていて、それが報道されることで、それを見た他の人から相談が来たり、それが社会問題になることで、コメントを求められたりするようになりました。それまで支援していた人たちとも繋がって、ネットワークがどんどん広がっていく感じでした。そういう取り組みをしていた人は、あまりいなかったと思います。


弁護士として目の前の依頼者を救済しつつ、社会も変えていく

――今はどういう観点に重きをおいて、外国人問題に取り組んでいますか。

 弁護士である以上、第一に目の前の依頼者の権利を守らなくてはいけませんが、それだけだとモグラ叩きをしているような虚しさがあるんですよね。その人を救えても、我々の目や手が届かないところにも苦しんでいる人はずっといる。だから一つひとつの事件を通じて、その依頼者を救済しつつも、制度を変えていかなきゃいけないし、そのために声を上げていかなきゃいけないと思っています。
 私たち弁護士は、技能実習制度について学問的な知識があるわけじゃないですが、現場にいる依頼者の苦しさっていうのは、ある程度分かる。それもそういう事件を複数やっているわけで、現場で何が起こっているかということを、社会やメディアや学者や政治に対して届けていけるのは、私たちにできることだし、それはやらなきゃいけないことだという思いがだんだん強くなっていて、今は一つひとつの事件ではもちろんその依頼者の権利を守ることを重視するけれども、同時にそれを素材にしながら社会を変えなきゃいけない、その両方が大事だと思っています。


違う文化の人とぶつかっても「違うね、だから仲良くしようね」になればいい

――ここからは、皆さんから届いた質問を中心に進めます。弁護士として長く外国人に関わってきて、今の日本社会をどう見ていますか。

 外国人差別の背景には「外国人は自分たちと違う怖い存在だし、何をするかわからない。だから管理しなきゃいけない」というゼノフォビア(外国人嫌悪)があるわけですが、残念ながら日本の場合、一般の市民の中にもそれがある程度というか、かなり浸透してしまっていると思います。ただ、その根源は市民の側ではなくて、国とかメディアがヘイトスピーチ的なものを、いろいろな形で有形無形に発信しているのが原因じゃないかと。例えば誰かが犯罪をして捕まった時に、ベトナム人の誰それ、中国人の誰それという形であたかもその国籍とか民族に犯罪の原因があるような形で伝えることもそうです。

――日本ではよく〇〇人という言い方をしますが、どうしたらこういう偏見的な考え方が変わるようになりますか。

 なかなか難しいですが、自分が言われて嫌なことは言わない方がいい。自分が海外に出たときに日本人だからああだこうだと言われたくないし、日本人だからじゃなくて私はこうなんだと思うと思います。もちろん民族という属性はその人にある程度つきまとっているだろうけど、一人一人違う人間なので、〇〇人だからこうだというのはないと思うんですよね。その当たり前のことをちゃんと意識して行動、発言する。でそれでも間違っちゃうことはあると思うけどそこは周りから指摘されたときにちゃんと受け止めて変えていく。私も講演のときに〇〇人はこういう仕事が得意ですよねと発言して、抗議されて「しまった」と思ったことがあります。まあそれは指摘されたからダメなんじゃなくて、指摘された時にきちんと受け止めて変えてくっていうことが大事じゃないかなと思いますね。

――外国人との共生において、日本の文化とか価値観からくる難しさはあると思いますか。

 違う文化の人が隣人として暮らした時には必ずぶつかると思うし、ぶつからない方がおかしいと思います。ぶつかったときにそれを嫌悪とか差別で捉えるのか、それとも、違うよね、びっくりだよね、だから仲良くしようとなるのか、そこが分岐点じゃないでしょうか。
 日本文化の根底に排外的なものがあるという人がいますが、私はあんまりそう思っていなくて、古い時代も、近代もそうですが、むしろ日本人は多様な文化をものすごいごちゃまぜに取り入れるのがうまい人たちだと思うんです。ところが今は、このできあがった日本を絶対化していて、そうでない文化や歴史を持っている人たちに対して否定したり見下したりしていることが問題であって、それは逆に自信がないことの裏返しのような気もしますね。


面白く楽しく相手のためにもなる外国人支援から始めればいい

――外国人支援に日常的に関わるにはどんな形があって、どんなスキルが必要ですか。

 いろいろなあり方があっていいと思います。例えば自分の友達でも誰でもいいので、その人が困っていること、例えば日本語が上手く話せずに困っているのなら、それをなんとかできるように応援してあげようという素朴なところから始めていけばいいと思います。ただ、個人の過度な犠牲でやってしまうと続かないし、逆に嫌になるので、1人が無理なら10人のグループをつくって交代で日本語を教えてみようということでいいし、そのためにカンパを集めて運営資金を賄おうとか、応援したい人の国の料理を食べながらの楽しいイベントを企画するとか、そういう形でいいと思います。どこかの団体に入って、その人たちと一緒にやるのもいいし、企画力や行動力がある人なら自分で立ち上げて始めてもいい。決まった形があるわけではなくて、面白くて楽しくてその人のためにもなる。自己満足になっちゃいけないかもしれないですが、そういうことを考えていけばいいのではないでしょうか。

――外国人支援を職業にするにはどうしたらいいですか。

 ボランティア的に支援をするのもいいし、それを職業にするのもいいと思います。ただ職業ともなれば、お金を稼がなければならないし、あくどく稼ぐべきではないが、ちゃんと仕事をしただけの対価を得ることができ、スタッフを雇用するなら給料も払わなければいけない。そういう経営ができることが前提だと思います。実は私もそこを日々悩みながら弁護士事務所を経営していて、倒産しないようにちゃんと回っていくような形でちゃんと収入を担保しなければならない。そのバランスを取りながら社会に貢献していくことができればとてもすばらしいと思います。


サプライチェーンのずっと先に人権侵害が起きていないか考えてほしい

――指宿さんがJP-MIRAIに参画している理由を教えていただけますか。

 経歴からわかると思いますが、私は労働組合、あるいは弁護士として労働者の代理人ばかりやってきていて、企業とは敵・味方ということが多かったです。今でもそういう面はありますが、ここ数年はビジネスと人権という考え方のもとで、企業側からも人権を守らないといけないという動きがすごく強くなってきたと思っていて、私のところに大企業も含めて企業から結構講演依頼がくるようになりました。そういう中でJP-MIRAIが設立されて、企業だけでなくNGOや自治体などさまざまな団体、そして個人が参画していますが、企業の側から外国人労働者の権利を守っていこうというこの動きはすごく大事だし、そこに私みたいな労働者側の人間が出て行って、いや現場はもっと大変なんですよとか、そんな甘いことやっていたら問題が起こったとき、ものすごいリスクを負いますよということを言った方がいいと思っています。私のような生粋の労働者側の弁護士の苦言とかを聞いて、それで運営していこうという団体があるのは、貴重だと思っています。

――日本の企業が共通して抱えがちな問題点にはどんなことがありますか?

 大企業から見た時に、その取引先のサプライチェーンのずっと先の末端の見えないところで人権侵害、例えば技能実習生に対する人権侵害が起こっているわけですが、それをちょっと他人事で捉えているところはあるのではないかと思います。今まではもう完全に他人事だったんですけど、今はJP-MIRAIができたり、ビジネスと人権の考え方のもとで、それが改まってきたりしているとは思いますが。ただ、そこまで手が出せないよねっていうような、ちょっと冷めた見方っていうのはまだまだあるのかなと思います。やれることに限界があるのもわかりますが、自分の会社の取引先のサプライチェーンで、私が初めて出会った中国人技能実習生たちのような状況があったと知った時に、少なくとも心を痛めて欲しいと思うし、その人たちの立場に立ってほしい、何とかしたいと思ってほしいし、そのためにどうすればいいかを考えてほしいですね。
 その考えがあれば、私のような労働者側の弁護士とも対話ができますが、そこまでは手を出せないですよ、無理ですよっていう考えだと多分対話が成り立たない。その対話が成り立つ場として、JP-MIRAIという団体があるし、そういう点を大事にしてほしいと思います。


インタビューを終えて

 ”Cool Head but Warm Heart”の言葉がぴったり合う方だと感じました。目の前の相談者のために代弁者としてとことん闘うだけでなく、記者会見等で積極的に発信もする姿は、社会全体のマインドや構造を変えていく真の活動家と呼べるもので、冒頭の言葉を体現しています。また同時に人懐こさも感じさせる点が指宿弁護士の魅力です。舞台から引きずり下されそうになった指宿青年を同じ学生が守ってくれたお話やトラックで野菜・果物などを売っていたお話は、いかに人との触れ合いを大切にしてきたのかが分かるエピソードです。もし正論ばかり高く振りかざす”理屈屋”であったなら、今”ヒーロー”として慕われていなかったかもしれません。辛く悲しい現実と向き合いながらも明るい未来への信念は捨てず、多文化共生への道を切り拓く。”責任ある外国人受け入れ”とは、そういうことなのかなと指宿弁護士の言葉から考えさせられました。

株式会社ソーシャライズ代表取締役社長 中村 拓海(なかむら たくみ)
1990年東京都生まれ。一緒に学ぶ留学生が就職活動に失敗し、帰国していく様子を見て大学時代に起業。留学生の就職支援と外国人雇用のコンサルティングを行う。外国人の採用・定着や自治体の外国人受け入れに関するセミナー政府機関向けの調査・提言、大学でのシンポジウムのファシリテータ―、日本起業と留学生のマッチングに関するレポート執筆など、活動の幅は多岐にわたる。お坊さんによく間違えられるが、世界各国のお酒に目がない。
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