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JP-MIRAI外国人相談・救済パイロット事業(JP-MIRAIアシスト)(JICA実施分)

外国人とともにつくる未来――外国人支援のささえ手インタビュー

田中 宝紀さん(NPO法人青少年自立援助センター定住外国人支援事業部責任者)

子どもに向き合う現場とバランスを取りながら、継続可能な事業を展開していく

「外国にルーツのある子どもの支援」という言葉を社会に浸透させた立役者といえばNPO法人青少年自立援助センター定住外国人支援事業部責任者の田中宝紀さんです。いじめ、フィリピンへの単身留学、フリーター……。壮絶ともいえるそのライフストーリーを振り返るとともに、この分野の第一人者としてのこれまでの実践と自分の立ち位置の変化について、率直な言葉で語っていただきました。
(ライター:金子恵妙)


プロフィール

田中 宝紀(たなか いき)(NPO法人青少年自立援助センター定住外国人支援事業部責任者)

1979年東京都生まれ。16歳でフィリピンのハイスクールに単身留学。高卒程度認定試験を経て大学で国際関係学を学ぶ。大学時代に友人らと立ち上げたフィリピンの子ども支援団体を経て、2010年より現職。「多様性が豊かさとなる未来」を目指して、海外にルーツを持つ子どもたちの専門的日本語教育を支援する『YSCグローバル・スクール』を運営する他、日本語を母語としない若者の自立就労支援に取り組む。日本語や文化の壁、いじめ、貧困など、外国ルーツの子どもや若者が直面する課題を社会化するために、積極的な情報発信を行っている。二児の母。

フィリピンで経験した「生き延びるため」の時間と、「何かを成し遂げるため」の挑戦

――16歳の時にフィリピンに単身留学されたそうですね。

 逃避というか、小中学校でひどいいじめがあって、父親の勧めでフィリピンのハイスクールに1年いました。田舎だったので、周りの人たちはやさしいし、太陽は熱いし、家の裏には田んぼが広がって水牛がのんびり歩いていて、そこに何よりも、自分がいることが認められ、生きるということができる環境がありました。学校は二の次で、言葉もあまりわかりませんでしたが、友達や近所の人たちが、いろいろ面倒を見てくれました。私も一人で乗り物に乗れたとか、肉屋さんで肉の塊をひき肉にしてもらったとか、そういうことに喜びを感じていましたね。

――穏やかな時間を持てたのですね。その後はどうされていたんですか。

 帰国して、フリーターや、パフォーミングアートの劇団員をしていました。でも高校中退の学歴だとアルバイトの選択肢が限られるし20歳を過ぎてから、「自分に自信が持てるものを何か成し遂げよう」とセブ島に渡りました。セブ島では、ビサヤ語という言葉が使われていて、その言葉をつかえる日本人は珍しいから、その第一人者になろうと。それで半年ぐらい語学学校に通ったら、タガログ語のベースがあったし、言語的に相性もよくって、半年でタブロイド紙が読めるぐらいまでになりました。日本からくるメディアクルーとか、NGOの通訳兼ガイドを細々とするようになって、なんとなく、社会の駒の一つとして生きるという感覚がつかめたように思います。


24歳で入学した大学で、フィリピンの児童養護施設を支援する任意団体を立ち上げる

――凄い行動力ですが、さらにそこから大学に進学されていますね。

 はい。セブには2年ぐらいいて、通訳やガイドの仕事でNGOとも関わるようになる中で、自分も国際協力の分野で働きたいと思うようになりました。でもそのためには、大学に行かないといけないし、それ以前に高卒資格も必要だということで、1、2か月で高卒程度認定試験の準備をして合格し、ちょうどアジアでの生活経験者向けの入試があった亜細亜大学の国際関係学部に24歳で入学しました。

――どんな大学生だったのですか。

 それまでは勉強が得意ではなくて、及び腰というか惰性でやってきたところがありましたが、その時は意図を持って大学に入学したので、最前列に陣取るようなタイプに変わりました(笑)。参加型開発を専門とする先生のゼミに入って、社会起業家の卵のような方とも交流していました。私の場合、既にフィリピンにいたり、フリーターをしたりといった実体験があったので、それをひも解くだけでむちゃくちゃ忙しかったですね。フィリピンの子ども支援の任意団体も立ち上げました。将来はフィリピンの開発に携わりたいなと考えていたら、フィリピンの児童養護施設をサポートしてみないかという話があって、募金を集めたり、現地へのスタディツアーを企画したりして、その収益を施設に送っていました。あとは、大学生らしいこともしましたよ。友達と夜中にドライブしたり、飲み会でのみつぶれたり、遅れて青春を送らせてもらえた感じです。大学を卒業した時には、ようやく日の光の下に出たなと思いました。


フィリピン出身の中学生との出会いから、外国ルーツの子どもたちの支援へ

――外国にルーツのある子どもとの関わりはいつから?

 卒業後、その任意団体の国内事業として、福生を拠点に日本語ボランティアをする話になりました。すると、たまたま「日本語わからないし、学校で誰も教えてくれないし、家にも居場所がない」というフィリピン出身の中学生と出会ったんです。調べてみたら、全国的にそうした子どもの存在があることが分かって、それで子ども専門の日本語教室をつくろうということになりました。

――活動資金を用意するのが大変だったと思いますが。

 最初は、助成金を200万円受給しました。それで活動をしていたら、国が始めた「虹の架け橋教室」という定住外国人の子どもの就学支援事業の趣旨に合うので、申請してはどうかとお声がけいただきました。申請したところ受託が決まり、結構大きい額の補助金を活用できることになりました。申請には法人格が必要なこともあり、そこからはNPO法人青少年自立センターに入れてもらい、その新設事業部として動くことになりました。

――順調なスタートだったのですね。

 いや、最初は全然分からなくて、お金なんて、いいことをやっていれば後からついてくるだろうと考えていました。今のような起業家支援もない時代で、とにかくやってみるしかなくて、手探りで始めてみたら、200万円の助成を受けて始めたのに、1年やってみたら200万円の赤字になっていて、「お金は大事だ」と学びましたね(笑)。


委託事業打ち切りを機に、現場から運営全体を見る側に

――委託事業が終わった後はどのように運営を?

 委託事業は2010年から2014年度までの4年間で、その間に「YSCグローバルスクール」の土台は固まったのですが、そこに胡坐をかいてしまっていて、2015年2月に委託事業そのものが打ち切られることが決まったときには、どう事業を続けたらいいのか悩みました。それで、思い切ってスクールを有料化することを決めました。お金を払ってまで来るかなと心配でしたが、実際は、お金を払ってでも専門性のある日本語教育を我が子に受けさせたいという人が多かったです。これを機に、私自身の役割を見直し、「私はもう現場から完全に退いてお金のことだけを考えるから、みんなは子どものことだけを考えてほしい」とスタッフに伝えました。

――具体的にはどんなことに力を入れたんですか。

 クラウドファンディングをしたり、TwitterなどのSNSなどで積極的に発信したりするようにしました。最初のクラウドファンディングから著名人の方を含めてたくさんの方が支援してくださって、「こんなことが起こりうるのか」と驚きました。そうやって周りの方の力でこの分野の「第一人者」にしていただいたところはありますね。


目の前の子どもに向き合うスタッフだけじゃなくてもいい

――現場を離れたことで、他のスタッフとの軋轢はなかったですか。

 ありがたいことに一緒に事業を進めている人たちとは、時間をかけて着々と築いてきた関係性などがあるので、その辺はうまくバランスが取れているのかなと思います。やはり、現場のスタッフには、専門家として子どもを支えたいという熱い思いがあって、その気持ちをどう支えていくかが大事だと考えています。例えば現場から、「ここをこう変えたい」「こうしたい」というアイデアが出てくる。そこで私がやるべきことは、そこにコスト感覚を導入して、「じゃあこれは一対一で教える形だとコストが莫大になるから、仕組みとしてこうやっていこう」とすり合わせていくことです。

――また現場に戻りたいと思うことはないですか。

 この分野で仕事をしていると、人とのダイレクトな関わりに関心が強いように思われますが、私の場合、人と面と向かうと濃すぎるというか、そこまで人が得意ではないですね。ただ、両親も不登校の子どもや障害者の支援に携わっていた人間で、そういう生まれなのもあって誰かの役に立ちたいというのは宿命的にインプットされているのかなと感じます。どういう形で実践するかとなった時に私の一番取り組みやすいポジションがマネジメント系だったのかもしれません。目の前の子どもに向き合うというより、そういう子どもたちにどういうものがあったら、その子たちの権利が保障されて、幸せな暮らしが実現するのかを考える感じです。

――これまで苦しかったこと、逃げかったことはありますか。

 尊敬している方に「目の前に馬車が止まったら、ちゃんと乗りなさい」と言われたことがあって、馬車が止まる人自体がそもそも少ないのだから、選ばれたのならちゃんと乗りなさいと。だから逃げるというのはないです。ただ、自分が始めたことを最後まで見届けたいというのはなくて、自分なりに「ここまで」という終わりも決めていて、そこに向けて淡々と仕事をしている感じですね。


「多様な人がいてこその日本」に舵が切れるかどうか

――外国ルーツの子どもの支援は例えば30年後どうなっていると思いますか。

 コロナ禍もあり、オンラインでも専門性のある授業ができることは、共通理解として育まれたとも思います。今後それが広がっていけば、例えば日本語が分からない子が離島に来ても、日本語教育についてはミニマムのところは受けられるようなると思います。
30年後の日本がどうなるかは、日本が移民社会としての日本、共生社会としての日本に向けて舵を切れるか、どれくらいのペースで向かっていくかによると思います。日本には今、同化主義的な流れもあって、人々の分断の到来すら懸念される状況になっていると思います。ここをどう踏ん張って、「多様な人がいてこその日本」を構築できるかですね。


インタビューを終えて

物事や状況を俯瞰的に眺めて、自分がやるべきことを冷静に見極められる知性と心の強さを感じ取りました。多感な時期にいじめを経験したこと、そしてフィリピンで「ただ生きる」時間を送ったことが、”自分自身を遠くから認識して動かす”感覚の原点なのかもしれません。過去に不当な扱いを受けた人も、今まさに受けている人も、その辛さは決して正当化されるべきものではないけれども、田中さんのように広い視野をもって社会を変えていける可能性を秘めています。「目の前に馬車が止まったら、ちゃんと乗りなさい。」この言葉の体現者が一人また一人と増えていくことで、私たちの生きるこの社会は良くなっていくでしょう。

株式会社ソーシャライズ代表取締役社長 中村拓海(なかむらたくみ)
1990年東京都生まれ。一緒に学ぶ留学生が就職活動に失敗し、帰国していく様子を見て大学時代に起業。留学生の就職支援と外国人雇用のコンサルティングを行う。外国人の採用・定着や自治体の外国人受け入れに関するセミナー政府機関向けの調査・提言、大学でのシンポジウムのファシリテータ―、日本起業と留学生のマッチングに関するレポート執筆など、活動の幅は多岐にわたる。お坊さんによく間違えられるが、世界各国のお酒に目がない。
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